昭和41年05月27日 朝の御理解
御神誡 「口に真を語りつつ心に真の無き事。」
陰と日向の心を持つなよ。信心さして頂きよってどうして、そんなに陰、日向があるんだろう。信心をしておって、言う事行う事がどうしてそんなに違うのか。おかしいようですけれども、矢張りそれがあるんです。どう云う所から、そう云う事に成って来るか、口と腹が違う様な、裏と表がある様な、陰、日向がある様な、そう云う事では折角信心しよって馬鹿らしいと云う所まで私共が分らして貰う。それだけ神様を分らして貰うと、そんな事は段々出来なく成って来る。
いや馬鹿らしゅう成って来る。けれども、矢張り教祖の神様がこうして、御理解に又は御神誡にそして、そのいましめを教えて下さるとう云うことは、やっぱり信者たくさんの人が信心しておるけれども、そう云う様なことではおかげ受けられんぞと、そう云うことでは信心さして頂く者がいけんじゃないかと、教えておられるところをみると、やっぱ皆んなある訳なんです。まあ、今日の御理解を前提として、そのことを頭に置いて話を聞いて頂きたいと思います。
ここにも最近は密接な関係が出来てまいりましたが、教務所の所長の日吉先生がここに見えます。本当に色々ご心配をして下さっておる先生なんですけれど、そちらの、いわゆる一番先代が、まあ、ほとんど無学に近いお婆さんがあすこに、芦屋の教会を開かれたのです。桂先生が小倉へ来られて間もない頃、自分の体の上に難重な病気がある為に、その事のおかげを頂く為に、お参りされたと御信心を頂かれたという、日吉つるという先生、非常に真心の厚い方だったらしい。
とにかく遠賀川ですかね、こう、隔てての汽車のない頃ですから歩いて小倉にお参りをされる。毎日お参りする訳にはいけんから十日に一回のお参り。ですから毎日その自分の食べ量、自分の頂かれる米の中から一合づつ引かれた、それを、一升溜まったら十日になったんだ、あと言う訳で一升のお米を持って御広前にお引きよせ頂かれる。そう云う様な信心が続けられておるある日であった。
桂先生がそのお米(よね)を御神前にお供えなさった時に、まあ、お栽伝と云う事で御座いますね、というのは神様から直接あのお声がかかったと云う事で御座います。日吉つる真の信心になったと、千人の神にただしてやると、お言葉があったと云う事で御座います。日吉つる真の信心になったと1000人の神にただしてやると、成程、そういう、いち婦人の相対して、いうなら無学に近い婦人の方が、教会長として沢山の難儀な氏子が信者が助かる様な、矢張り、教会長としてのおかげを頂かれた。
その日吉先生が頂いておられる桂先生から、受けておられる御教えの中にお参りされるけれども、お参さられるけれども、体の方は全然おかげ頂かれなかったという、けれども矢張りある時の御理解に、桂先生が日吉先生に仰っておられる「人を助けて我、助かれ」と仰っとる。人を助けて我助かれと。それから一生懸命にそのお導きをなさった。ところがそのお導きをした人が、どんどん助かる。
いわゆる自分の部落なら部落の近所の方達をどんどんお導きされるもんですから、終いにはとうとうこうしゃが出来た。いうなら、日吉先生を中心にしたその信者さん方が、日吉先生を忠臣にして、日吉先生をお導きの親としてその集うてから先生に来て貰ってから、お祭りを仕えて貰ったり、いろんな今で言うなら信心の共励をなさったり、お寄りと言った様な事が、ある様になった。
そこに一つの教会組織が出来る位の人が集まる様になって、教会が建立されたので御座いましょうけれども、とにかく人を助けて我助かれとこう、ここんにきの所を一つ私良く分らして貰う。人を助けて我助かれという。結局煎じ詰めると自分自身が真実助かる事の為の、お導きであったと云う事ですよ。私は今日わかって頂きたいのはですね。本当に信心を自分のものにしたいという人信心を本当に自分のものにしたい。
信心によって本当に自分の心の上にも、形の上にも助かりを頂きたいという人、只おかげさえ頂けば良いという人、信心は自分のものにならなくても、おかげは自分のものになれば良いという人、ここんところに私は、はっきり線が出て来るとこう思うのですね。信心を自分のものにそこに私は、一番始に御神誡、御理解申しました様にですね、信心さして頂いておって、いうなら、言うておる事と、行うておる事。いわゆる口に真を語りつつ心に真のなき事とか、陰日向の心を持つなよとおっしゃる。
その陰と日向の心と云った様なものはです、信心を自分のものにしょうと思うておる人はでける事じゃないですよ。そうでしょうがねけれどもその成程、この神様はですね、信心をしておかげを受けるのは別もの人の良いのと悪いのとは、又別ものとどんなに真の無い人でも、どんなに悪い人でも信心をしておかげを受けると云う事は、受けられるという道なのですよ。真の人でならなければおかげは受けられんというのじゃない。おかげは受けられるけれども信心を自分のものにさして頂こうと願うならば。
真の人にならして貰わなければおられんのであり、真の道を踏まなければ、馬鹿らしゅうなってくるのであるね。例えて申しますならば私がです、こうして、日々、こうして御用さして頂いておるね、それが本当なら私自身が助からなければならない。言わば人を助けて我助かれと。こう仰るから、人が助からなければならん。為に先ず、私自身が助からなければならん。私自身が信心を頂かなければならない。私自身が信心を頂かなけれは、神様から私自身が御信用頂かなけれはならん。
神様の御信用を大坪総一郎が願うておるのだから、大坪総一郎に対してでもおかげをやらんなるまいと言う風に、神様が思し召し下さる為には、私自身が神様の御信用を頂かなければならない私自身がです、とてもその只見かけは信じられるけんでと言う様な事で。私がお結界奉仕ならお結界奉仕をしておるとするならば、これは陰と日向のある信心という事になりましょう。口に真を語りつつ心に真の無き事になるでしょう。
ところが、私自身が御信用頂かなければ私の助かりもないが、皆んなの助かりもないと、こう分らして頂く時にです、人が見ようが見よるまいがね、私は、矢張り神様の御信用頂く為に、神様は見通しである。神様は聞きどうしであるのですからね。矢張り私は、何が何んでも修行さして貰わなければ、馬鹿らしゅうなって来る。例えば、そんなら今度それと反対の事を申しましょうね。
私は修行しよると言わんばっかりの顔をして、まあ、信者に見せ信者にそのまあ、見て貰う為に、うちの先生は本当にあげん修行して貰う、信者から大事にして貰う為に、まあそれを、なら、形だけの修行を皆さんに見せる為にしておると致しましょうか。それでは私自身が助からない。私を助けて下さる筈がないですね。皆さんがお参りをされる。お参りの内容でもそうですね。本当に信心の分らして頂く事の為のお参りが内容になって来ると、あれが毎日参って来よる、参って来るとは、参って来よるけ。
まあ、それでおかげはお取次を頂いて頂いておってもです、本当に信心を自分のものにする為に私は信心しなけれは、馬鹿らしゅなって来る。朝は眠たいけれども、少し真面目に本気で早く起きさして貰わにゃ馬鹿らしか。御祈念前に御用の一つでも頂かなければ、あすこにああしてお参りさして貰いよるけん、たまには朝参りなと、いっちょさしてもらわな、手前が悪かちゅうて言う様な御用じゃなくてです、御用させてもらわなければ、馬鹿らしゅなって来るね。
お供え一つでもです、ただ、形だけの物ではなくでです、ただいま、秋永先生があんな状態で御座いますから、昨日も福岡から参り、昨日は信子さんと文男さんと息子の徹さんが参って参りました。非常におかげを頂いておる。今日なんか何か注射かなんかせんならん、ところが、この位残っとる、そしてそのもう、秋永先生がせんで良かち。その看護婦さんに言いよんなさるですたい。
そげな事言いよんなさると死んでしまいますよと言うたげな、それこそ秋永先生が怒ったそうです。あたしゃ絶対死なんて大丈夫だから、止めときなさいち言うてから言うたち。言うてから大笑いしよりました。それでもやっぱりあの、夢うつつだそうですまあだ。 昨日、椛目にお参りする時は皆んな兄弟三人、ここに参って来ておった。したら椛目に行くと分ったんでしょう、そして寝言ながら分らんごというたけど。
はっきり親先生によろしゅう御礼申し上げてくれと言ったのは、はっきりしとりましたと、文男さんが言いよりましたね。まあ、そういう様な状態で御座いますね。ですからそれで皆さんが、本当に椛目始まって以来でしょうね。やっぱり何十名のお届けが御座いました。秋永先生のお届けが、例えばそういう様な事ででもですよね、もう本当に、せなやっぱちょっと手前が悪いからお届けをする人と。
もう、本当に秋永先生の全快をそのまま、それが椛目の御比礼に継ながっておるとおかげ頂いて貰わなならんというて、そうして同じ例えば百円のお初穂でもですね、内容が違うでしょうが。そして、そこに本当に信心を如何に秋永先生が助かられる事の為に、椛目の為にそれがなされておっても、それはあなたの力になるのですよ。そこんところが、人を助けて我助かれと云う事なのです。その事がですよ、自分の助かりに継ながっておる様な御用であり、助かりでなからなきゃならないと云う事。
自分というものは例えばある意味に於いては、虚しゅうしてでもその事を祈っておる。その事の為に修行しておる。只信心だけが自分のものに頂きたいね神様が見ているのだから、そんな形だけの事ではもう馬鹿らしか(?)折角おかげを頂くならば中身のこもったですおかげを頂かねばならんと云う事にならなければならん。秋永先生の事を祈って秋永先生が助かって下さるだろうと、同時にですねそう祈っておられる皆さんの助かりが、助かるという繋がりがある様な信心でなからなけれは馬鹿らしいでしょうが。
形の事をしょってもですね、それが、もし内容が形だけいうなら、言葉でいうておるだけ、形だけであるとするならばです、神様にそれは嘘をいうておるような事になるでしょうが。陰と日向でしょうが。裏と表のある心でしょうがね。口に真を語りつつ心に真の無い事でしょうがね。それでは私しゃ馬鹿らしいとこう思うのですね。
お互いが本気で信心を自分のものにさして頂く為にです、裏も無ければ表もない。人が見ようが見まいがです。神様が御承知の世界に生きぬかせて頂くんだからという信心こそがね。信心を自分のものにする事の為の修行しておられる人だと私は思うのですね。人に見せる為に人からよう思うて貰う為にと云う様なものが、もし私共の信心の中身に、もしあったとするならば、これはおかげにならん。
これでは、ようは馬鹿らしいと早く気付かせて頂いて、折角同じ時間、同じお金を使ってするならばです、神様に認めて貰えれる私は信心をおかげは頂きましょう。けれどもそのおかげだけじゃ、信心が自分のものにならん。徳にも力にもならんと云う事だと思うて本当にもう、この神様ばかりは一つ頭からいく信心ね、もう、むしろ形よりも心に行く信心、むしろ見える所より見えない所に力をいれる信心、そういう信心を本気でさして頂きたいと思うですね。